読書、ときどき料理

読書感想と、あと、ときどき料理をメモしたいと思います。

「君の膵臓をたべたい」は恋愛ものか?

 

「君の膵臓をたべたい」

先日「君の膵臓をたべたい」を久しぶりに読んだ。

実家に置いてあるので買う必要はないのだが、古本屋でつい見つけてしまい、うっかり買ってしまった。

君の膵臓をたべたい

君の膵臓をたべたい

 

 

読書メーターでも書いたが、エネルギッシュで活発な桜良と、全く正反対な【草舟の彼】を、皮肉にもエネルギーの生産役たる膵臓で繋いでいるのが、私は好きだ。

 

彼女は自身の膵臓の代わりを務めるかのようにエネルギーを生み出し、ふりまいて、一方、それを受け取るのが、エネルギーを失っているーー生きることに無気力な【彼】だ。

まるで人体と膵臓の関係のように、互いになくてはままならない関係となった二人が、悲劇を越えて精神的に和合する結末を、私は美しいと思う。

 

 

 

さて、本作の感想を色々読むと、よくある病弱少女の感動恋愛もの、と批判的に述べているものも少なくない。

 

確かにその手のものは「四月は君の嘘」「八月の終わりは、きっと世界の終わりに似ている。」「タイヨウのうた」「君は月夜に光り輝く」「いちご同盟」など、枚挙に暇がないし、本作の構成は、その範疇に収まるだろう(誤解がないよう書くが、今挙げた作品も好きだ)。

 

しかし、私は「君の膵臓をたべたい」は、もっと根源的で理想的な人間関係の理想像を描いた作品だと主張したい。

「よくある病弱少女の」の部分はともかく、「感動恋愛もの」というのは、仮に肯定的な感想だとしても、作品の構造だけを見て本質をとらえていないに過ぎない。

 

 

男女間の友情論

男女間に友情はあり得るか?

そんな議論をしたことが、もしくは、見聞きしたことがおそらくあるだろう。

 

そんな話をおよそ90年も前にとつとつと書いた人がいる。アベル・ボナールの友情論を読んだことはあるだろうか?

友情論 (中公文庫)

友情論 (中公文庫)

 

真の友情とは何かについて、また、男女間の友情があり得るかについて論じた随筆だ。

 

男女の友情(愛情ではない。ボナールは愛情を友情の下に置き、あくまで友情を礼賛している)について述べているところを抜粋する。

 

互いに相異なるということをどこまでも認め合い、互いにつっかかって行きそうなふりをする、かと思うと、突然、本能的な衝動によって互いに近づけられ、水晶の橋ともいうべきちょっとした笑いによっていっしょにさせられて、お互いの無遠慮から来たたわむれのさなかにおいて、どうしても常に和合していないではいられない幸多き宿命に気がつく。これがそうした愛人たちの至福である。

(友情論:176p:中公文庫)

 

桜良と【彼】の関係性

引用した箇所は、まさに、全く正反対であることを認め合い、軽口を交わして時に仲違いし、それでも憧れ、互いが互いになりたいと思った「君の膵臓を食べたい」の桜良と【彼】に当てはまる。

 

もし、ボナールが「君の膵臓をたべたい」を読んだなら、これこそ男女間における真の友情の物語だとうなずくだろう。

 

ボナールは、そうした男女の友情は、恋愛の内、恋愛の先においてのみ成立すると説いている。

また、恋愛は体と感情を源流とした不安定なもの、他方、友情は理性と尊敬を源流とした安定的なものとしている。

 

ボナールの言葉、そしてクライマックス直前の【彼】の吐露と咲良の共病文庫を重ねれば、二人の関係はとっくに恋愛を越え、何ものにも代えられない尊いものに至っていたことは明白だ。

 

ゆえに、安易なラブストーリーという解釈を本作に当てはめるのは全くの間違いだと、私は言いたい。

 

 

 

……と、述べたはいいが、本作の実写映画の特報を見て、粗製乱造のラブロマンスにしか見えなかったのを思い出す(よって本編は見ていない)。

 

そして、大衆が求めているのは結局そういうものなのかなと、さびしい気持ちになった。

 

閑話休題、そういうわけで「君の膵臓をたべたい」を読むなら、ぜひボナールの「友情論」もおすすめする。

より作品と、二人の主人公にのめり込めるはすだ。